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2005年08月20日

「まいどおおきに!」(第四話)

今回から山鉾(やまほこ)に付けられた「固有名詞」についてお話しようと思うのですが、本題に入る前に少し予備知識が必要かと思います。
祇園(会)祭りが「官祭」であるとお話しましたネ。官祭とは朝廷が国家行事として主催するお祭りですから「経費」は当然、朝廷(国家)予算で賄います。しかも、朝廷の威信が懸かってますからお祭り全体のデザインも相応に「体裁」を必要とする。あんまり、ミミッチイことは出来ない訳です。行列も人数を整え、賑々しく威厳を保ち、お飾りや服装も出来るだけ華麗・華美に飾るということになります。実際に費用を負担するのは貴族・公家ですが、そう謂う「貴人・高官」同士の見栄や競争心も働く問題もある訳です。そして、そういう傾向が年々増幅し、比例的に経費が増え、負担が重くなるという事になって行きます。ところが、平安末期頃になりますと、武家の力が増し、相対的に公家の力が落ち、負担能力が低下して「官」の力だけではお祭りの開催が危うくなる。12世紀はじめ頃にはそんな状態になって来ている訳です。
下世話に申しますと、新しい「スポンサ-」が必要となってきた訳です。

「朝廷(国家)のお祭り」「神事」という基本線は維持しながら、経費だけ「官」以外のル-トに求めたい。甚だ、虫の良い話ですが三百年近く歴史のあるお祭りともなるとちゃんと新スポンサ-が現れるものです。それが、京都の新町・室町の商人、富裕階級のいわゆる「町衆」とよばれた人々の集団です。
はじめは「所役」「役負担」など上からの一種の強制(税金?)のようだったと思いますが、町衆は祇園祭の経費負担に同意します。そして、負担の「分担ル-ル」や「負担の単位」など、受け皿の自主的制度が出来上っていきます。この負担単位が後、「鉾町(ほこちょう)」に成長して行きます。応仁の乱(室町幕府の時代)以前に、すでに山鉾58基が生まれています。祇園祭りの歴史上、「数」だけを問題とすれば、この頃がピ-クであったのではないでしょうか。応仁の乱の中断を経て、復活してからの祇園祭は「町衆の祭」という性格を強めます。山鉾には既に「固有名詞」が付いてますが、「山」は毎年テ-マが変わることもありました。山鉾の「固有名詞」が現在の姿に固定したのはそれ程古い話ではなく、江戸時代中期以降のようです(それでも300年以上昔ですが)。現在残されている山鉾のテ-マも「中国の故事、武勇談、神仏信仰、謡曲、修験道、伝説」など等多彩です。期せずして、当時の京都市民・町衆の文化レベルの表現であり、関心の対象を知る上で興味ある資料です。

さて「山伏山」は応仁の乱以前から同じ場所に存在していますが、現在と同じ「形」であったかどうかは分かってません。「山伏山」は修験道・信仰の双方に関わるテ-マになっています。 

今回の話はここまで。
「まいどおおきに!」

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