「まいどおおきに!」(第二話)
前回、とみひろ京都店が祇園祭りの鉾町のひとつ「山伏山町」にあるとお話ししましたネ。
今回から暫らくの間、この「祇園祭」について話を進めたいと思います。
二条城の南側に「神泉苑(しんせんえん)」という処があります。今は、一角が料理屋になってますのでその庭かと見紛うのですが昔、平安京の頃は宮廷人のサロンになっていた場所で、祇園祭(祇園会・えとも言います)の起源を考える上で重要な処です。
祇園祭は九世紀後半(869年・清和天皇時代)、朝廷がこの神泉苑で六十六本の鉾を建て、「怨霊を鎮め・疫病退散を祈願した」ことが始まりとされています。京都の地形は盆地で山が近く、その上北から南へ下がる傾斜地で、雨の後などはしばしば山側から大量に水が流れ出し、自然と湿潤な環境になっていました。特に、梅雨時分の京都独特の「高温多湿」の環境が、蚊、ハエなどの害虫を大量に発生させ、疫病大流行の原因となっていたのですが、当時の人々はその原因を「衛生環境」にあるとは考えず、「御霊(おんりょう)」の崇(たたり)と考えました。多くの貴種・貴人・高位高官が皇位継承や官僚ポスト争いの犠牲になって、無実の罪に貶められ、非業の死を遂げていたからです。そういう不幸な人の恨み(怨霊)を慰め、慰撫することが「疫病制圧対策」に有効と考えたのです。
今、豪華華麗で華やかな「祇園祭り」ですが、最初は、こんなデリケートな動機から始まっているのです。
もうひとつ、祇園祭の起源で見落とせない大切なポイントがあります。
それは祇園祭は『勅祭・官祭(朝廷・天皇が掌する祭)である』という点です。
つまり、祇園祭は「国家行事」として始まりました。政治を行うことを「まつりごと」と言いますが、天皇がお祀りになることが「お祭り」です。全国、何処へいっても、お祭りはあり、むろん京都にも祇園祭以外にお祭りは沢山ありますが、「有名度」や「賑やか度」などの現象は兎も角として、「勅祭」かどうか、の一点でお祭りの性格や格が全く変わるのです。日本三大祭りと言えども例外ではありません。祇園祭と他の二つのお祭りには明らかな「性格」の違いがあります。ひとことで言えば祇園祭は「国の神事」、大パレード、エベント型のお祭りと祇園祭の性格の違いを頭に入れなければ、祇園祭は理解し難い所があります。この祭りが、途中「応仁の乱」の中断・三十年後に復活、という劇的なドラマを越えて千年以上の長きに亘って継続してきた息の長さも、この辺りに秘密かあるのかも知れません。
祇園祭は七月十七日・山鉾巡行がクライマックスで、その十日程前から鉾や山が建ち始めて段々とムードが盛り上がって行くのですが、実はお祭りの期間は長く、六月十五日からスタートして、いろいろな神事・行事が水面下で進みます。昔は「後祭り」でも、前祭りと同じく山鉾が巡行しました。七月一杯は祇園祭りの期間中です。
この続きのお話は次回に譲りたいと思います。
それでは、みなさん今回も読んで頂きまして
「まいどおおきに!」